夜行列車の断片 — ひと駅分の記憶

電車が静かに走り出すと、車内の匂いが少し変わる。座席に残るコートの匂い、換気口から漏れる冷たい空気、誰かが忘れた紙袋の匂い。その混ざり合いが町の輪郭を曖昧にしていく。隣に座った老人は眠っているのか、目を閉じて天井の広告を眺めているのか分からない。

車窓に映るネオンの断片が断続的に差し込み、通り過ぎる街角を切り取る。私の手の中の小さなノートには、断片的な言葉だけが並んでいる。「三番ホームの自販機」「紫色の傘」「忘れられたライター」——その全てが、ここでしか拾えない物語の種のように思える。

列車が一駅停車し、人が出入りする。誰も私のノートを見ないし、私も誰の顔も覚えようとしない。だが、その無関心の中にこそ、ひとりひとりの重みが残っている。短い時間の中にある「知られざる深さ」を、私はいつも密かに探しているのだと気づく。

物語は大きな事件の周りだけにあるわけではない。夜行列車の一駅分の断片にも、無数の小さな物語が埋まっている。紙片のような記憶を拾い集めるのが、創作の原点だと改めて思った。

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